でっどでっどデーモンズデデデデストラクション 2

その日、営業の電話を握った私は「ああこれは蛍光灯なんかではなくて、もしかしたら豆電球だったのかもしれない」と気付いた。社会人二年目の秋だ。上司は全員、憧れの先輩だった。それでも自分の手元の資料もメールもセカイもそして固定電話のプッシュボタンも、ちかちかひかる大量の豆電球に阻まれて読み取れない。ぐしゃぐしゃのバーコードを読み取ろうとする必死なアルバイター、たぶんそういう表情をして、辺りを見回していたと思う。見回して、やっぱり、世界はどこにも異常がない。東日本大震災の時分、遠い南の島で実家が被災地になる様をテレビ越しに見て、ああ、とりのこされた、と思った。車との接触事故で入院した友人の見舞いの帰り、立ち寄ったコンビニで数分手洗いに入っていた間に、自転車が忽然と姿を消していた。もしかして、ここまでわたし歩いてやってきたのだったっけ。

世界がぐらぐら揺れる瞬間は何度かあった。

でも視界がちかちかと光に覆われて形をなくすのは、人生で二度目の経験だった。

月末だった。営業職に就いた私に、新人で成績のちっともあがらない私に、休んでいる暇なんてない。

でも咄嗟に、もしもこれがあの高校三年生の時分にやってきたヒカリと同じ現象なのだとしたら、きっと暫く後に猛烈な吐き気がやってくるだろうことが予想できた。

必死で上司に訴えて、「この月末の忙しいときに風邪か貧血なんてこれだから」という表情をされながら必死に、更衣室に辿り着いた。瞬間、またぐらりと地面が揺れた。部屋を照らす蛍光灯がまぶしくてたまらない、頭の両側がずくんずくんと悲鳴を上げている。更衣室に自分一人しか居ないことをよいことに、電気を消して、部屋の隅に膝を抱えて踞った。踞って、ただただやりすごそうとして、一分、二分、三分、事態は悪化の一路だった。

年の近い女性の先輩が心配して頭痛薬をくれた。一回二錠、それで、なんとかなるならと口にした。五分、十分。気がつくと定時をとっくに過ぎていた。頭痛はだいぶんマシになっていた。多分、ゴジラモスラが頭の中で暴れていたピーク時よりは、まだ方向感覚を失ったウルトラマンが右往左往頭の中で飛び回っては頭蓋骨にぶつかっては反射する、それくらいの、もうよく判らないたとえなのは私自身が一番よく判っている。

 

それがたしか、ふつか、みっか、続いたのだと思う。

ひたすら更衣室で踞る間に、小学生の頃、更年期で寝込んだ母にふと忘れられない暴言を吐かれたことを思い出した。

そしていま、その頭痛がでているその数日は、丁度生理前だ。

 

レディスクリニックでピルの処方を受けた。

月経困難症。

ふた月分で5000円もするのかと思った。

でもこの、逃れられない苦痛を遠ざけることができるならいくらでも払う。そういうつもりだった。

 

 

 

 

 

でっどでっどデーモンズデデデデストラクション

じりじりと真綿で首を絞めるようなじさつだと言われた。

それがじぶんの社会人としての三年間の総括だという。誰が。医者が。だってどう考えてもアナタ職人カタギの自由業気質でしょうという。そうでしょうか、はたしてほんとうにそうですか、でもわたしは、ふつうのひとと同じことができると思っていたんですと答えた。ふつうのひととおんなじように朝起きてご飯を作って食べて電車に揺られて会社についたらメールチェックして朝礼から午前の業務をして、お昼に近くのお弁当屋さんで買ったオシャレな弁当を食べて、午後の業務をうつらうつらしながらこなして、定時、残業辛いなあなんていいながら二、三時間くらいの見なし残業なら全然平気だと、思っていたんですと。帰って夕飯を作ってテレビを見てけらけらわらいながらもぐもぐして、それでしばらくネサフでもして疲れたらお風呂に入って化粧をおとしてぺたぺた化粧水やら乳液やらをつけて、布団にもぐる。

それがどれだけ自分にとって困難なことかを、たぶん、学ぶための三年だったんでしょうねというはなし。

 

法政大学の一般入試の日、忘れもしない、午後のラスト一教科英語の最終長文、突然、目の前がちかちかとヒカリに覆われて文章が読めなくなった。まるで目の前に細長い蛍光灯を一本置かれたみたいに広がる白に、私はてっきり教室の電気がおかしくなったんだと思った。だから反射して、問題用紙の文章が一部ひかって見えないのだと。でもそうじゃなかった。そうじゃないと気付くまで数分、気がついてパニックに陥って数分、きょときょとと辺りを見回し始めた田舎臭い受験生に試験官が気付いて、どうしましたか、と駆け寄ってきてくれたとき、私はもう泣いていたとおもう。私の目に、しろい、消しゴムのカスが入っていませんか、とまじまじ訊いた。いいえ、と試験官は答える。マスカラでも入りましたかと訊かれて、今度は私がいいえと答えた。だって茨城の田舎のクソヲタ女子学生がわざわざ小金井くんだりまででてきて、志望校の、入試の日に、マスカラなんてハイカラなものをつけているわけがない。

泣きながらトイレに立った。試験官はついてきてくれた。何度も何度も目を洗ったけれども、ひかりはちっとも消えてくれない。ああこれはあれだ、写真を撮るとき、フラッシュが目に焼き付いて取れない現象に似ているのかもしれない、と何度目かのセルフアイボンが無駄に終わった瞬間に気付いた。でも私が、天井にある蛍光灯をヒカリが目に焼き付く程マジマジ見た瞬間なんて、たぶんきょう、一度もなかろう。だって入試だ。入試の日なんだぞ?

結局英語の長文は全く読めなかった。マークシートも読めなかった。あとは勘に頼るしかなかった。勘で、視界の端に映るマークシートのいちばんにばんやAやBをマークした。

答案の回収が終わると先程の試験官が走ってやってきて、医務室に連れて行くという。付き添いの大人は居ますか。はい、母がおります。ではお母様を呼んできますから、ここでまっていてくださいね。と私は廊下にぽつりと取り残された。ざわざわと帰路につく受験生たち、同級生になるかもしれない、ならないかもしれない同年代の男女がわらわらと駅へ向かって行く。長文どうだった、割と簡単だったよねアレ、最後、アレ引っかけのつもりかな。

傍らを通り過ぎて行った女の子二人の会話に、ぼろぼろ泣いた。

問題文なんてちっとも読めていなかった。

ひっかけかどうかなんてわかるはずもなかった。

母がどこからか慌てた様子でやってきて、あとから試験官も追ってくる。

案内された小金井キャンパスの奥の奥、医務室にいたおじいちゃんセンセイは「疲れたんでしょう」と笑った。「緊張しちゃったかな、だいじょうぶ、きっとすぐ治るよ」

治らなかった。

東小金井の駅から秋葉原までの間、ひたすら異常な視界に世界が狂ったのだと思った。

つくばエクスプレスの改札を抜けた瞬間、ぐらりと地面が回った。猛烈な吐き気、と、頭痛。

パソコンやケータイや漫画を読みすぎてアタマが痛くなる、なんてそんな頭痛とは比較にもならないような、アタマの内側から頭蓋骨を定期的にビール瓶で殴られているような、痛みだった。自分の頭蓋骨が割れるのが先か、それともビール瓶が割れるのが先かとふと笑えてきて、両手で頭を抱えた娘がへらへら笑い出したことで母はいよいよただ事ではないと思った、らしい。と聞いたのは後の話だ。

地下4階までエレベータで辿り着き、既に満員だった快速電車に乗った。

もうとっくに私の方が身体が大きくなっていた。十センチ近く小さな母に、全身でささえられてつり革を掴む私の顔色は真っ青だったらしい。大きな鞄を抱えた中年のサラリーマンが、さっと立ち上がって席を譲ってくれた。多分何本か電車を逃して端っこの席を取ったのだろうに、こんな訳の判らない頭を抱えたジョシコーセーに席を譲るなんて滅多にできるものじゃない。

 

 

当然のように、試験は不合格だった。

当日の受験科目は、国語と、歴史と、英語の学科だったと思う。私の得意な分野は受験現代文と漢文、それから英語の長文読解だった。そこで点が取れなかったら、アウトだということは自分自身が一番よく理解していた。

ただその数日前、私は法政大学のT日程入試、いわゆる単教科試験も受けていた。

課題図書は井伏鱒二の『黒い雨』。

試験前日に母が台所でけんちん汁を作りながら、「こういう問題でねえ、出るものなんて決まってるのよ」と笑いながら口にした問い、2問。それが当日、問題用紙に一言一句違わずタイプされていた。さすが現役の国語科教員は違いますねと、試験終了直後に笑ったのもそういえば、小金井キャンパスだった。

 

ともあれ私は、大学に合格した。

T日程の結果発表は早稲田の教育学部の一般試験当日だった。

一教科目が終わると同時に実家に電話した。

酷く明るい声の母が電話にでて、私の母校はそこで決まったのだと思う。